素王の歩んだ道②

こんにちは。Sです。

前回は孔子が生きた春秋時代の始まりについてまで述べました。その春秋時代と戦国時代の画期となったとされる年が紀元前453年と紀元前403年です。まず紀元前453年は,晋の趙氏・魏氏・韓氏が晋陽の戦いで智氏を滅ぼした年です。晋は周の王室の一族が建てた国とされ,この時代に覇者(文公)を出したことがあるほどの強国です。覇者についてはいずれ改めて説明しますが,ここでは,そのころに最も勢力のあった国と認識しておいてください。周の一族の国で,実権を握った趙・魏・韓・智の4氏が争って国を実質的に3つに分裂させた年が,この紀元前453年です。それらを正式に諸侯として周が認めた年が紀元前403年です。このときまで,臣下が実権を握って主の首をすげ替えることはあっても,臣下自身が主になることはありませんでした。ところが,このときに趙・魏・韓の3氏は主の姫氏に取って代わってしまったのです。しかもこの下剋上を,秩序を守るはずの周の王室が認めたのです。このときから伝統的な秩序よりも力が物言う戦国時代になったと考えられているため,この2つの年が2つの時代の画期とされているのです。ちなみに,このときにはまだ「王」は周の王室だけが称することができ,諸侯の多くは「〇〇公」と呼ばれていました。孔子は紀元前552/551年~紀元前472年に生きたとされており,まさに時代が移り変わろうとした時期を生きたのでした。

次に孔子の生まれた魯の国についてですが,この国は孔子が尊敬してやまない周公旦の子を開祖とする国です。彼について説明すると,ものすごく時間がかかってしまいます。そのため,かいつまんで申し上げますと,周公旦は周王朝を開いた武王の弟であり,「周礼」を著したとされる中国史上の巨人の一人です。その魯の国に生まれた孔子ですが,「孔子世家」の冒頭に孔子の一族は宋の国の出身と記されています。宋は周に滅ぼされた殷王朝の一族がつくった国ではあるのですが,宋の国は周辺の国からよく揶揄された国としても有名です。例えば,守株や宋襄の仁などの故事があります。ここについても色々と考えることはあるのですが,それは別の機会があれば語ることとします。ここでは,すでに孔子の出生地と家系にそういう不思議な因縁があるという指摘にとどめておきます。さて孔子は「野合」によって生まれた子だとも記されています。「野合」とは,正式な手続きを取らずに夫婦関係となったことであり,孔子の母もこれを忌んで父の墓所を告げなかったそうです。しかし,孔子は子どものころから礼器を用いて礼式を整えて遊ぶなど,儀礼を意識する気持ちが強かったらしく,母が亡くなった時も父と合葬することを望んで父の墓所をさがしてそうしたそうです。孔子はのちに成長したときも儀礼に強いこだわりをもっており,その両親が儀礼よりも感情を優先した行動をとっていたことは意外な感じがしませんか。ここから僕は「孔子世家」は司馬遷一人の手によってなったのではないと考えています。

このことに関する詳細は次回に詳しく述べようと思います。 今回はこの辺にします。次回もお楽しみください。

投稿日時:2021年07月13日 09時37分14秒
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