素王の歩んだ道③

こんにちは。Sです。

最近は私事が立て込んでしまい,ブログを書けていませんでした。しかし,今日は久しぶりに「素王の歩んだ道」シリーズを更新したいと思います。「素王」とは孔子のことです。今回も孔子のかっこいい人生を,みなさんと一緒にみていけたら幸いです。

父と母の合葬を済ませた孔子は,経書を抱えて勉学に励んでいました。そのころ,魯の大夫の季氏が士人を饗応しており,孔子も招待を受けました。ところが,季氏の臣下である陽虎に,孔子が若くて身分の低いことをとがめられて門前払いされてしまいました。ちなみに,この陽虎と孔子は顔が似ていたらしく,後年,孔子はそのせいでトラブルに見舞われてしまいます。さて,陽虎によって季氏から拒絶されてしまった孔子ですが,彼を認めてくれている人はおり,魯の大夫の孟釐子といいました。彼が死の間際に,自分の嗣子に孔子の弟子となるように遺言していました。彼がなくなると,嗣子の懿子と南宮敬叔が孔子のもとで礼を学ぶようになりました。この南宮敬叔は孔子の「七十子」といって,特に優れた弟子として有名であり,論語にも登場します。ここの対比がドラマチックで面白いですよね。政治の世界のトップとはそりが合わなかったが,同時期に自分の学問を不朽の物としてくれる弟子を手に入れていますね。これは僕の憶測ですが,季氏の邸宅に招待された際,陽虎へ取り次ぎに対する付け届けと,彼に媚びた姿勢を見せていれば,孔子は政界の大物とこの時にお近づきになれていたと思います。ただ,この後もたびたび出てきますが,孔子の不器用な性格のせいでそのチャンスを逃してしまいました。個人的な考えとしては,彼にとってはそれが正解だったと思います。話を戻しますと,弟子を得た後の孔子は,いろいろな職を転々としたり,諸国を放浪したりします。孔子はこのような経験を,この後も何度もします。政治家よりも思想家の方が向いていたのかもしれませんね。話は全く変わりますが,孔子は身長が九尺六寸(約2m)もあったらしく,人々から「長人」と呼ばれていたそうです。まあ,これは,中国の帝王によく付随するトンデモエピソードの一つかもしれませんが。先ほど,登場した南宮敬叔の口利きで,孔子は魯の使節として周の国へ行くことになりました。「史記」の書き方では,南宮敬叔が孔子に同行したいと魯の君主にお願いしたから,彼は孔子についていけることになったと書かれていますが,まあどうみても彼が頼んだから孔子は使節として周に行けることになったとしか読めませんよね,今までの経緯的に。それは置いておいて,孔子にとってはあこがれの周の国への訪問ということで,テンション爆上がりだったのではないでしょうか。しかも,この周訪問で孔子はある重要人物と出会ったとされています。それが,このころ周の国の守藏室の史(書庫の記録官)を務めていた老子です。この老子は,あの「老子」を書いた李耳のことです。二人が出会い,何を話したかは伝わっておりません(荘子の逸話などはあり)が,別れ際に孔子は老子から次のような言葉をもらいました。「わしは,富貴なものは人を送るのに財物をもって餞別とし,仁人は人を送るのに言葉をもって餞別にすると聞いている。わしは富貴にはなれない。そこで,仁という名をかりて,そなたに言葉をおくろう。聡明で深く事理を察していながら,死ぬような目に遭うのは,他人を誹議することが好きなものだ。非常に能弁でよく物事にゆきわたっていながら,その身を危うくするのは,他人の悪をあばくものだ。人の子たるものは,我をもっていてはいけないし,人臣たるものも,我をもっていてはいけない」(「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1)これについてもいろいろといいたいことはありますが,今日のところはこの一言でまとめさせていただきます。「かっこいい。」漢文の書き下しもかっこいいですが,漢文訳もかっこいいのが多いですよね。今日のところはこのあたりにしておきます。ここまで読んでいただき,ありがとうございました。続きを楽しみにしていてください。

投稿日時:2023年05月26日 19時02分53秒
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